経営理念に息づく
創業の精神
徹底した顧客ニーズへの対応
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創業者のルーツ
1929(昭和4)年4月1日。
東京市板橋区板橋町10丁目134番地(当時)に、
城北伸鉄の前身となる「榎本製線工場」は誕生した。創業者である榎本藤太郎が磨棒鋼メーカーを立ち上げたのには、
彼自身のルーツが大きく関係している。藤太郎は、埼玉県北足立郡膝折村大字溝沼、現在の朝霞市に生まれた。
当時の膝折村は黒目川の水量と適度な流れに恵まれ、
水車による伸銅事業が盛んな地域で、
関東における伸銅、伸線のメッカであった。そんな地域に生まれた藤太郎が、
丁稚奉公で針線業を学ぶのは自然な流れだった。
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急成長を見せる創業期
1929年4月、39歳になった藤太郎は独立を決意。
先に述べた東京市板橋区(当時)に榎本製線工場を創立する。
自宅の敷地内に小さな工場を建てた、家内工業的な工場であった。
当時の板橋区は、小さな町工場が密集している地区。
そのため、顧客からの引き合いは多かったという。磨棒鋼は当時から自転車や自動車の部品等に
使われていたこともあり、順調に事業は成長していった。藤太郎は1935年、
板橋区前野町960に約200坪の土地を借り、
社名も新たに「榎本製線工場」と改変。
心機一転、再スタートを切った。そして、事業は順調に伸びていった。
だが、順風満帆に見えた榎本製線にも、
激しさを増していく戦争の影が忍び寄っていた。
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戦後の荒廃から立ち上がる
1937年以降、日中戦争の影響を受け、
日本の産業は軍需生産力の拡大を推進していった。1939年には棒鋼材(磨棒鋼)の需要が大幅に増加することを見越し、生産体制を整備。
「株式会社榎本伸鉄所」として経営体制を法人化した。そして、日露戦争を経て、日本は太平洋戦争へと突入。戦火は激化する。
1945年の東京大空襲で、板橋地区の工場は大きな被害を受けた。
榎本伸鉄はかろうじて被災は免れたが、人材、設備両面でダメージは小さくなかった。そして同年8月15日、終戦。終戦の混迷期。産業の復活は、
日本経済の復活のためにも急務だった。1946年には榎本伸鉄所も生産を再開。戦後の復興期、
庶民の輸送手段として活躍した自転車向けの部品として、
ブレーキハンドル材やタイヤの前後心棒、各種ナットなどの生産を行った。1947年5月には、本社と同じ板橋区内に板橋営業所を開設した。
なぜ、本社工場がある板橋区内に、また別の営業所を開設するのか。
そこには現在の城北伸鉄の理念にもつながる、創業者の強い想いがあった。
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顧客ニーズに応える「精神と技」
榎本伸鉄所は磨棒鋼を製造している。
そうすると、周辺の工場から「磨棒鋼を少し分けてもらえないか」という申し出が多くあった。
通常の考え方で言えば、小ロットの販売は手間がかかることもあり、避けたい。
しかし、榎本伸鉄所の考え方は違った。「顧客の求めることをしよう」
特に板橋区に密集していたのは、小規模の町工場がほとんど。
自動車用部品に使われる、そのまた小さな部品の製造を請け負う、小さな工場ばかりだった。
つまり、部材や完成品の在庫を置くスペースも限られているし、
材料を大量発注するほどの生産量がないこともある。「だったら、ウチで在庫を管理して、生産する分の磨棒鋼をお客様にお届けしよう」。
そんな発想から、本社と同じ板橋区内に営業所を構え、自社倉庫を備えたのだ。
徹底した顧客ニーズへの対応。
営業部門だけでなく、製造部門も一丸となって「お客様のためになることは何か」を考える。
それが、今もなお続く「精神」である。その精神は、製品ラインナップにも表れている。
榎本伸鉄所では、創業当初から単純な伸線だけではなく、
半丸や四角、平角などの異形品を進んで受注していた。
顧客のニーズに応えようという精神と、確かな技術力があるからこそできること、である。創業当時から育んできた顧客を第一に考える「精神」。
これは、現在の城北伸鉄の経営理念である
「一本一本を大切に、一人一人を大切に、一歩一歩を大切に」という言葉に、
集約されて今なお受け継がれているのである。